天風哲学、安定打坐法
2016-03-23


安定打坐法
           昭和31年、京都夏期修練会(抜粋要約) 
 安定打坐法とは率直に言えば「天風式坐禅法」と言うのです。
坐禅というのは何だと言えば、やさしく結論してしまえば、心鏡を払拭して煩悩を解脱せしめて悟りを開くというのが目的です。この「心鏡払拭」が、坐禅では 非常に難しいと考えられているんだ。これは難しく教えるから難しくなるのであって、特に宗教家の説く坐禅というのは、一番会得困難なポイントが一つある。それはなんだというと、坐禅の一番大事とする三昧境ということがはっきりつかめないのです。
 初心の間は、それを説く人もたいていの人は、三昧境を一心の境と呼んでいるんですが、しかし厳密に言うと、一心の境が三昧境でなく、「一心の境は、三昧境に達する道筋」なんです。では三昧境とは何だと言うと、天風会のいう「霊的境地」です。だから坐禅の目的は、心を霊的境地に入れる特別な修行と考えていいんだ。
 そこで心が「霊的境地」に入ればどうなるかというと、宇宙の根本主体と人間の生命とが一体になるということ。そして一体になれば、宇宙本体がもつ限ない叡智が、人間の心の中に受け入れられるということになる。安定打坐というのは、心に特殊な方法を行わせて、きわめて簡単に、坐禅の教義の中で一番難しいと言われている三昧の境地に入れさせる方法なんです。
 そこでこの方法を教える前に一度ぜひ理解しておかねばならないことが一つあるから、そいつを一応説明します。
 元来、この人間というものは、その本性においては宇宙の根本主体と一体になるものですよ。宇宙本体の心の中にある無限的な叡智というものが、我々の命の中へ流れ込んで来るように自然にできているのです。
 そこでどうすれば一体となれるかというと、これは昔の坐禅を人の言葉の中に無いのですが、これは私が苦心した結果、発見したもので、心をトランスの状態にすればいいわけです。トランスとは何だというと、無念無想の状態になることです。「無念無想、いゃ〓そいつは難しい」と、たいていの人は言うのですが、 それは結局、無念無想という状態を正しく理解していないからなんです。なかには無念無想というのは、何かこう夢、幻のような、混沌模糊たる精神状態のように考えるという滑稽な人もおります。そこで無念無想とは、わかりやすく言うと、心が生命の一切を考えない時のことを言うのです。もっとわかりやすく言え ば、心が肉体のことを考えず、また、さらに心が心の動きを思わない時、よろしいか、それが無念無想。わかったでしょう。
 しかし、これが普通の場合なかなか普通の人にはわからないんですが、とにかく心を無念無想の状況にするともう黙っていても、すぐさま宇宙本体と人間との生命はパッと密接的に合流してしまう。心が即座に霊的境地に入るがためなんです。
 人間の心の動きは、「本能境地」、「理性境地」、「霊性境地」と、三つに分かれていて、霊的境地というのは、宇宙の一切を創る根本要素である。この宇宙本体の生命の中にある「霊気」の実在するところ、宗教的に言えば、神、仏のいますところといえます。
  しかし、この霊的境地が特別なところに用意されていると考えちゃだめです。我々が打坐している目の前にあるんだから、かぎりなく遍満存在している。この我々の住んでいる大気の中にあるんだ。しかし、我々の心に煩悩、雑念妄念というようなものがあると、その中へこちらの命が入っていかない。
 こう言うのが一番いいかな、自分という本体は霊という一つの気体で、心と肉体とはその道具だと教えたね、そして心は霊という気体の働きを行う道具で、肉体はその心の働きを表現する道具だと教えられた。だから心が肉体を思わず、また心の働きを思わない時は、生命全体、命の全体が、当然この我の本体である気体を通じて、宇宙創造の根本主体の中に帰納するように自然にできているのです。
 さてそこで、この霊的境地にす〓と入るという方法をお教えする。

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